文章も、技巧が最高の域まで上達すると、そこには特別に珍しい奇抜な表現があるわけではなく、ただぴったり合った表現があるだけである。人格も、最高の境地まで到達すると、そこには特別他と変わった様子があるわけではなく、ただ人間本来そなわっているものがそこにあるだけである。
via: 「百三条」菜根譚 – 講談社学術文庫
以前、自分の中のかっこよさの定義を決めたことがありました。ひとつめは自分に素直であることで、ふたつめは主体的に動けていることです。
菜根譚の条文にもあるように「特別な何か」ではなく「本来そなわっているもの」があるだけなのに、ことあるごとに、着飾ったり、特別な何かを探してしまいます。
そんなものはないのだけれど…。特別な何かを求めて右往左往してしまう。右往左往しているということは主体的でなくなっている。あ、そうか。主体的に動けていることが自分に素直な状態なのかもしれないな。
「いま、何をなすべきか」立ち返って考えよう。
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