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第3回 貞観政要を読む

北方遊牧民族突厥(トルコ人)

アルタイ山脈を境にモンゴリア東突厥と天山山脈北方に西突厥に分裂する。

隋末の乱

勢力は相対的に逆転。隋の群雄達は貢物で突厥と手を組むようになる。中国の国内が唐によって統一に向かう。突厥と対立する。突厥は、玄武門の変の2ヶ月後、長安の北まで攻めてくる。しかし、その3年後。貞観三年(629)末から四年初め、モンゴリアが大冷害に見舞われ、家畜が多く死に絶え、食糧難になる。唐はこの機に大攻撃をかけて第一可汗国を滅ぼすと、政権は軌道に乗り始めことになる。

「貞観の治」泰平の世が実現した理由

隋末の乱が15年続き民衆が安定を望んでいたこと。そして、突厥という最大の敵が消滅したことが大きな理由ではないかと言われている。

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