心の本体はないように思われるが、いや本体はあるのだと追求し、修養につとめるのが工夫というものだ。また反対に、心はあるとして追求していくと、無いという結論に達するのが本体である。
言志耋録55条
”心はあるとして追求していくと、無いという結論に達する”というのは、どんな心境なんでしょうか。唯識や般若心経では、特定の何かがあるというのはなく、すべてはつながりでできているものというのをいろんな角度から書かれています。本体とは、そういうものなのかなぁと想像しています。
自分は何のために生まれて、何をして、どこにいくのかを追求する中で、自ずと本体(命)とは何かと追求したくなるものではないかと思いました。
となると、”無い(空)”と観たらどういう変化があるのだろう。
白隠禅師が四十二歳で法華経を読んでいたときにコオロギの声を聞いて悟ったと言われます。
あえて地獄に落ちる 円覚寺 管長日記
何を悟ったのかというと、自分だけが悟ってヨシとしてはいけない、苦しんでいる人を救って行かなければ本当の悟りではない、悩み苦しみ人がいる限り、私の修行も終わらない、「衆生無辺誓願度」という願いに目覚めたのであります。
とてもわかりやすい例だと思い円覚寺 横田南嶺老師の管長日記を引用しました。”無い”を観たときに、”自分がやるべきこと”がでてくるのでしょうね。”無い”という結論で終わっては、その後の発展がありません。”無い”と観た後どうするか?が大事なことなんだと思いました。